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アマゾン原住民のピダハン族の言語を切り口に、「文化」の背景を考察する
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ぱっと見、妙な装丁の本だ。
アマゾンの原住民の写真に、
「言語本能」を超える文化と世界観
なる副題。
言語、本能、世界観??。
訳のわからないプロモーションで、目を引こうという作戦か?。
実際に中を読むとわかるのだが、どうも、言語学の世界では、
・言語は、人間の本能が作る
・だから、言語はどれも本質的には同じものだ
(例えば、英語でも日本語でも、その違いは些細なものだ)
・文化文明による後付けの影響は、ありえない
というのが「定説」なのだそうだ。
というのは、以前取り上げた
これ の辺りが、その最右翼だったらしい。
その時にも書いたが、普通の感覚からすれば、
・言語は文化に依る
(例えば、英国人の考え方と、英語の造りには相互作用がある)
・だから、言語には地域性がある
・人間という動物が持つ本能が、普遍的に作り出す物ではない
というのが、一般の理解だと思う。
以前読んだ、
「進化の本」 に、言語を司るDNAの話が出ていたが、これも、音声パターンを意味づけて認識する能力の話で、言語そのものがDNAに組み込まれているわけではない。お椀はご飯を作らないのだ。
ところが、言語は本能によらない、という論旨は、言語学分野では「学術的に受け入れ難い」そうで、その妙な矛盾が、本書でも、全編に渡って繰り返されている。
筆者は、言語学者でもある。
なので、この本の内容は、言語学会に衝撃を与えた、と、そういうことらしい。
だから、こんなワケわからん表題になっていると。
しかし、本書の面白みは、全く所にある。
ピダハン族の文化、そのものだ。
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筆者は、聖職者でもある。
布教をする為に、原住民の懐に深く入り込み、その言語を習得して、聖書を翻訳する。
それを後押しする専門の機関があるそうで、その派遣員として、アマゾンに入り込んだ人物だ。
言語学の専門知識は必須である。事前に、著名な欧米の大学で言語学も習得している。 その有能さは、折り紙付きだ。
(言語学的には逆説かも知れないが、)言語を習得するには、土地の文化に深く分け入らねばならない。現地民が、どういう脈絡で、何を感じ、考えているのかを把握しないと、彼らの言うことが理解できない。自然、現地民のものの考え方や感じ方、つまり「文化」を、深く覗き込むことになる。
著者はアメリカ人だが、都合、数十年に渡って、ジャングルの奥地で暮らすことになった。その、長期に渡る滞在が、筆者に及ぼした影響は、ことのほか大きかった。
本書には、その詳細が記述されている。
言語や本能より、そちらの方が、よほど面白い。
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さて、そのピダハン族の文化だが。
一見、理想的なものに見えるのではなかろうか。
自然の中で自給自足。
子供も含めて、村人は全て平等。
個々人の力で、全てこなすのが基本だ。
無論、個人の力では及ばないこともある。そこは、お互いに助け合う。
余分なものを欲しがるのは恥だ。数日くらいは、食べなくたって平気だ。空腹におののくことの方が、みっともない。
だから皆、小柄だが、筋肉質で、引き締まった体つきをしている。
富(余分なもの)がいいことだと思われていないので、貧富の差がない。
村の中で、暴力は御法度だ。手を出していいのは、浮気がばれたダンナをポカポカなぐる、奥さんだけだ。(笑)
夜は熟睡しない。着の身着のままのジャングル暮らしで、いつ天敵に狙われるかわからないから。夜中でも、誰かが話しこんでは、笑っている。
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