バイクも載ってる本 「この100年、俺の100台」
2013-07-15




「底」のエントリーなので。
吐き出しておく。

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これを、バイクの本としていいのか、微妙な所だが。
バイクも多数取り上げられているので。一応、そういうことにしておく。

著者は、あの、マツダのロードスターを立ち上げた方だそうで。
期待して手に取った本だったのだが。

著者が、新旧の車やバイクについて、感想めいたことを書き綴っている。

60〜70年代の、著者が現役でお若かった頃の車種は、当時の生々しい情景があり読めるのだが。年代が下るに従って、通り一遍というか、いい加減な筆致になる。

メグロやライラックのあたりは、まるで見てきたような書き方で楽しめる。(見ておられるんでしょうけど実際。) しかし、年代が下がって、近年の車種になると、例えば、BMWのGSは新旧ひとからげに無理やりなまとめをしているし、水冷のドカでは、素っとん狂なことを書いている。全体的に、英車の記述が多いようだが、それがピークだった頃の洗礼を受けているのだろう。

著者は、業界では重鎮として有名な方なようだ。だからと言って、この本を「優れたご意見」として賜るのはちょっとムリで、「たくさんある昔話の一つ」がいい所だ

あとがきで、著者は、最近、名車が生まれないのは、人間的に魅力的な、良心のある技術者がいなくなったせいだ、それは、日本が伝統を大切にせず、結局は「カネに負けた」からだとして、技術者を糾弾(叱咤激励?)している。

全く。 これには同意しかねる。

著者は、年代としては、実際に戦場に送られた次の世代、日本が「坂の上」に向かう時代に当たる。日本が豊かになり、本書にあるような「名車」に次々に乗れるようになった時代だ。だから、それらの実情を知っているのは、プロとして、いわば当然なのだ。

しかし、著者は「エンジンは官能的じゃないといけない」とは言っているが、彼自身、官能的なエンジンを造れた様子はないから、たぶん、どこをどう設計してセッティングすれば官能的になるのか、結局は分からなかったのだろう。

私のような、彼の息子の世代でも、官能的なエンジンはいくつか知っている。しかし、それが今、再現できるかといえば、難しいのはすぐに分かる。いけない排ガス、ゴージャスな燃費、微妙な信頼性の組合せを、廃液を捨てられない、危ないメッキでピカピカに偽装して、済ますわけには行かないからだ。
(著者もご存知のはずなんだが。)

今、技術の現場を見回しても、そこで働く個人々々は、勤勉で良心に富み、人間的にも魅力的な人がとても多い。その彼らをして、強みを発揮できなくしているのは、彼らが置かれている環境のゆえだと、強く感じている。

いわんや、カネに負けた憶えなど、全くない。
(首切りが盛んな昨今だが、「まず食う必要がある」のは、戦後と同じだ。)

戦争で死ぬ目に遭い、後世を同じ目にあわせたくないと頑張った初めの世代、「坂の上に向かう時代」を導きながら、その果実を味わう前に(名車には乗れずに)逝った祖父の世代に、訊いてみたい気がした。

個人的な意向だが、もし、私がルマン1000のニュアンスを、電制で再現できたなら(制御の本質への到達)、私の人生の仕事の粗方は、終わりだろうと思っている。


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