バイクの本 「進駐軍モーターサイクルクラブ」その2
2015-12-13


第3回富士登山レース。今ほど契約が厳しくなかった当時、何故か(笑)他メーカーのYA-1の開発に携わっていた証人氏は、ホンダとヤマハの、周囲を省みない熾烈な戦いの渦中に居た。本番の1ヶ月も前から毎日、早朝の5時から爆音とともに始まる「練習走行」に周辺住民は辟易し、苦情を入れるも当事者は「無視」。その横暴さ加減に、当初は好意的どころか歓迎さえしてくれていた地元警察も態度を硬化させ、次の年からは数々の規制がされた結果、レースは事実上、骨抜きとなった。レースの本場は浅間の方に移って行ったが、メーカーの開発競争に主導される「雇われレース」は面白くなくて、レーサーは辞めて、地元に店を持った。そこに、ドラッグレースに出るという米兵が現われ、そのトラをいじったら・・・と、やっと話が米兵につながるのだが。
この取材の当時、やはりバイクのレースをしている証人氏のご子息も評して、「今の子は、お金の勝負でレースをするからかわいそう」とコメントしている。

次の語り部は、エンジニアである。
終戦の時に、父親が外地から引き揚げの際に持ち込んだスクーター「ポウエル」を、集金の足に使っていた。これに目をつけ、借り受けた中島飛行機・太田工場が数日でコピーし、ラビットの原型を作り上げたと証言している。(同じ話を、 以前取り上げた。 この逸話は真実だったらしい。) その後、メグロから分派したモナークに、エンジン設計者として参画し、’53年の名古屋TTを初め、黎明期のレースで好成績を残した。
前回、紹介した’49年のレースなどは直に見に行っていて、AJMCの欧州車がカッコよくて印象に残ったとコメントしている。
この戦後しばらくの頃のバイクは、性能そのものが目的で、そのための機能美に満ちていたからカッコよかったし、それを手に入れて実際に乗ることには、夢があった。
性能が当たり前になった、80年代のこの取材の当時、バイクの目的は、金儲けそのものになった。かつて、性能のために、ひたすら切磋琢磨したエンジニアにとって、今(80年代)のバイクは、皆「お金欲しそうな顔をしている」ように見える。技術的に、同じ要因を、同じように計算して追い込んで作るから、皆同じようななりをしていて、おもしろくない。かつてのような夢がないから、購買欲も沸かないと。
またもや同じコメントが出る。
「浅間から以降のレースに出た人というのは、メーカーに乗せられたような一面があるんだよ。」

次の語り部:
戦前からバイク屋をやっていた。戦後も、都内でバイク屋をやっていたが、住居があった立川に貸家を持っていて、当時の調達庁に強制されて米軍将校に貸していたから、基地の情勢にも馴染みはあった。朝鮮特需の時に、基地周辺の方が商売になるかと新たにバイク屋を開いた。駐留米兵でバイクに乗るのを許されていたのは将校以上の紳士が多かったし、戦前から外国製バイクを修理してきた語り部氏にとって、兵隊が持ち込むトラの修理はお手の物だった。店の客によるツーリングに参加するAJMCのメンバーは、陽気で開けっ広げで、ウエアもバイクもかっこよくて、乗り方は紳士で、若いライダーの憧れの的だった。
商売はうまく行っていた。国産バイクは入荷する傍から売れていった。以前は、子供がバイクの選手になると親は嫌がったものだったが、浅間以降は、逆に喜ぶようになった。カネになったからだ。
そして、この人も同じことを言う。
「やはり、浅間以降は、会社のレースだったような気がします。」
55歳の時に、AJMCのドラッグレースに出たんですよ。光電管を初めとする設備もすごかったが、雰囲気が、もっとすごくて。勝ち負けなんかどうでもよくて、愛車の性能をフルに出せれば、それっきりブチ壊れても、それでよしと。とにかく日曜を楽しく過ごすのが主眼だった。基地の食堂で食べたぶ厚いハンバーグはえらく美味かった。でも、米兵はさらに、コーラにビール、ちょっと(?)エッチなステージショーなんかもあって。もっともっと、楽しんでいた。

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