道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 〜冤罪、虐殺、正しい心
2020-04-04



少年犯罪の調査が本業という著者が、過去の冤罪事件を調査する過程で、関係者が残した著述に当たったり、当事者に実際にインタビューしたりしているうちに、「少年」ではなく「冤罪」の方にハマってしまい、冤罪を起こす構造的な理由について、当時の社会情勢や脳科学まで網羅しながら、暴いて見せてくれている。500頁超という大著だ。

最高裁での死刑確定の後、差し戻し審で無罪となった事件は、戦後すぐの時代から結構な数があった。当時は、明治から続く警察組織の変革期で、内に外に複雑に人間模様が絡み合っていた。さらに政治家や報道陣、「一般大衆」まで加わって、捜査の現場に「成果」を求め、結果として、警察側に「えせヒーロー」を、その裏面としての「無実の死刑囚」を、作り上げていく。

著者は、その、群集心理として湧き上がる道徳心、その裏返しとしての正義感を、冤罪の大きな原因として挙げている。

個人的な感想だが、この構造、どうも、日本人の、特にお役所に顕著な「逃げる癖」、ちゃんと終わらせるのではなく、「終わったこと」にして済ませようとする性向が、効いているように思われた。

えせではないヒーローのウルトラマンを引き合いに出してしまうが、スペシウム光線で怪獣をブチ殺せば、パッと見は一件落着には見える。しかし、怪獣に殺された人が生き返るわけでなし、荒らされた街が戻るわけでもない。怪獣の死体処理もせねばならんし、同様な事態へ対応するための準備や予防措置も必要になるはずだ。

だが、普通はそこまで考えない。
やったやった、悪い奴をぶちのめした。
気分がいい。
正義が執行された。

それは、無責任な憂さ晴らしと、変わらない。
所詮は他人事。
だから、それがもし自分に起こったとしても、誰も助けてくれない。

同じような瑕疵は、今でも残っているし、だから、背負うべき咎も、今でも同じだ。

何かをやりたいわけではなく、やった気になれさえすればいい。
今、ネットなんかを見ていると、その傾向は、なお強まっている。

きっとこれからも、冤罪は、様々な形で、続いていくのだろう。


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