戦場の精神史 武士道という幻影
2020-10-18


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内容としては、表題より副題の方が合っている。

日本史上、集団同士の戦闘の当事者が、どういうマインドセットで戦っていたのかを、文献から拾って記述している。

題材がマインドセット、つまり「どういうつもりでやり合っていたか」または「やりあわなかったのか」なので、手掛かりは文献しかない。武器や遺体(墓)などの物証から、マインドはわからない。

とはいえ、文献も、正直・正確に描かれているとは限らない。そもそもが「描きたいように書かれている」はずだし、後世の改ざんや追加もありで、文字通りに受け取ることはできない。あれやこれやを、いろんな角度から読み解いて、その間から、一本の真実を手繰り寄せる。

それは、 昔、私が昔やった作業 と似ているが、無論、それよりも遥かに広範で深い考察がなされている。

趣旨としては、どう戦うかのルールの話でもあるのだが、どう生きる(べき)かという倫理の話でもある。

その実態は、時と共に変遷する。例えば、武士の登場と勃興や、近世などの時代の変わり目では無論変わる。

各々の時代でも、正道だけではなく、アウトローも居たから、一枚岩ではない。不協和音を奏でながら、変遷し続ける。

時代が変わり、過去を振り返ると、その実態と共に、評価も変わる。転生し、再生産され、しばしば強制もされる。

武士はならず者だったか、文化人だったか。

武士道は本当にあったのか、あったとして、美しかったのか、外道だったのか。ただの、兵法のような方法論だったのか。

生き続けたいという希求と、勝ちゃいいんだというマインドは、同じことの表裏であり真逆である。だから、決して交わらずに、共存し続ける。

武士道の、理想と幻想と希望。
それは、現在よく語られる、多分に美化された姿とは、かなり違っていた。
その詳細の逐一は、本書を参照していただきたいのだが。

戦争はいつまでもなくならないし、「集団での戦い」という意味では、スポーツが類例として今日でも見ることができる。

また、我々日本人は、ルール(の強制)が大好きだ。

そういったいろいろな意味で、多数の視座を与えてくれるように思った。

類似物であるはずの、西欧の騎士道精神と並置してみると、面白いかもしれない。


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