バイクの本 〜 The Moto Guzzi Story
2012-03-25


新しいレーサーを作るたびに、それはいつ出るの?とせっつかれ続けたDucati 辺りに比べると、幸せな環境にも見えるのだ。

この、現実(量産)と夢(レース)をはっきり分ける現実思考は、Moto Guzzi の特徴の一つだと思う。それはこの後も一貫していて、見た目より実を取る、地道な取り組み方で通している。そんなあたりが、夢をダイレクトに与えたがる/欲しがるDucati 側の皆さんには、面白みがなかったり、「ずるい」と言われたりする所以かと思う。

Guzzi の歴史に戻ろう。

その後も、基本的に、立ち上げ当時のこの体制、つまり、量産車は水平シングルを発展させる、レーサーの方は、まあいろいろと(笑)、というその延長で、二次大戦まで至る。(実はもっと別のものも裏で走っているのだが、後述する。)

戦時中は、エンジンの搭載位置を上げて、悪路走破性を上げた軍用バイクなんかも造っていた。まあ戦時下ゆえ仕方がなかったのだが、連合国から見れば、枢軸国に加担する悪いヤツだ。ビアンキやピアジオも、工場を連合国に爆撃されて、のされている。しかしラッキーなことに、マンデロは無事だった。コモ湖畔なんて、へんぴ・・・もとい、風光明媚な所にあったのが、幸いしたのかもしれない。

終戦の後、日本と同様、イタリアでも、安価な足として、二輪車の需要が急速に高まった。 戦前からのメーカーに加えて、ドカティやラベルダなどの新興勢、さらに、ピアジオやアグスタなどの飛行機屋まで参入して、一斉にモペットやスクーターを作り始める。

Guzzi も、その辺を一揃え、ラインナップに加える。

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無論、レースもやる。
戦後すぐに、Guzzi がいきなりGPの上のクラスでも戦えたのは、戦前からの蓄積があったからだ。
そのピークは、言わずと知れた、あの500cc V8だ。

1956年(昭和31年)。
「スピード以外、何も考えない」
禺画像] Guzzi に限らず、レーシングマシンのこの「徹しさ加減」も、この頃が一つのピークだったように思う。Guzzi の場合、「ピーク」と同時に、「最後」にもなってしまうのだが・・。

舞台裏も見ておこう。

Guzzi は、地道な所でも稼いでいた。
あまり知られていないが、例えば、「オート三輪」だ。

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手近にバイクという動力源があれば、これに荷物を引かせたい、そういうニーズは常にあったろう。初めは、まんまバイクに荷台を引かせる構成から、駆動輪だけを一体化した3輪車構造を経て、しっかりしたキャビンを備えた、本格的なものに進化して行く。当初のハンドルバーは、ステアリングホイルに取って代わる。
この馴れ初めから進化の技術的な過程は、日本のオート三輪によく似ている。

Guzzi の荷車の製造は、戦前の1928年(昭和3年)から始まって、1980年代まで続いたらしい。始まりの時期は、日本とほぼ同じ。終わりの方は、確か日本は1960年代だったので、Guzzi のは、ずいぶん長生きしたことになる。
結構な数が出たらしいし、単価はまあまあだったろうから、稼ぎも良かったのではなかろうか。
バリエーション展開も多かった。例の「3X3」は、軍の要請に応えてオチャメをしちゃった、こいつのスペシャルバージョンだったし、小さい排気量の方も、Piaggio のApe あたりに近いものまであったらしい。

古く入り組んだ町並みが多いイタリアでは、Ape は今でも使われていて、こういうミニマム荷車のニーズは、しぶとく残っているようだ。そういう、市場のツボをおさえた製品を投入していたのは、マーケティングのうまさとも言えるだろう。


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