読書ログ 〜 「クルマよ、何処へ行き給ふや」
2012-03-31




ホンダでF1レースなどを率いた著者による自伝

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技術屋として、ご自身の仕事人生を振り返った、記録の書である。 戦争でエンジン設計に携わったこと、戦後、自動車業界に加わり、ホンダでのご活躍、さらに自動車関連の国際技術学会の様子などをまとめている。最後に、今後についての展望を述べて終わっている。

著者は、F1などレースに関する著書も多数お持ちだが、本書での重複は避けていて、もっと全体を俯瞰するような視点で書かれている。やはり、半分は(裏?)ホンダ史ともいえ、サイドストーリーや、「まとめ」のようにも読めると思う。

著者は聡明なエリートであり、戦争を実地に経験されている世代でもあるので、相当なご苦労をされている。才能も努力もはるかに及ばない私などが、何かを申せる筋合いには全くない。でも、いくつか少々気になった。

過去の過ちについては、素直に誤りを認めていて、反省もされている。技術屋は、モノを相手にする商売だ。モノは遠慮忌憚なく、平等に、現実を突きつけてくる。だから、その姿勢は、基本的(当然)なものであろうと思う。

未知のものや、自分の誤りを前提にしていないと、真実には近づけない。自分が知らない、という前提に立たないと、真実へと向かうトラクションが鈍るのだ。技術屋の末席を汚す身として、これは肝に置かねばならない。

しかし、氏のようなエリートにはよくあることだが、見方が単一に近いように感じる。頭がキレるかたなので、ご自分の考えに、相当な自信をもたれているようだ。反面、それ以外のものを想定したり、異物を受け入れたり、並存させたりしておくのは、あまり良しとしないらしい。それが、著者の性格によるのか、時代(環境)のせいなのかは、よくわからないのだが。

N360の、ユニオン訴訟の下りは歯切れが悪かった。確かに、今で言う「祭り」のようなものだったとは思うし、だからこそ、ホンダ側が受けた被害は不当なもの、とも言えるとは思うのだが。一方で、モノの方の不備も認めていて、でもやっぱり「相手が悪かった」という論に傾むくのは、当時のクルマのレベルなんてこんなモンなんだからイインダヨ、と言っている様にも見えてしまう。

「あの時、誰それが」といった感じの、「自分は正しかったが、外因により成功しなかなかった」調の主張が多いのも、少々残念だった。「私の思うとおりに造れたクルマは、ついに一台もなかった」という下りは、実に悲しく、辛いものではあるのだが。

最後の、将来への展望の下りは印象に残った。基本的に、日本車優位がピークにさしかかる時代の著(1988年)であり、著者の認識も、基本的にその延長にある。

しかし、21世紀の今。
風景はずいぶん変わっていると思う。

「何を造るか」より「どう造るか」が優先されて久しい。しかし、かつて値段と信頼性で世界を席巻した日本車は、単純に「機能÷値段」が評価となるユーラシアでのくんずほぐれつの中、今や、日本車がイチバン!と無邪気に言える状況ではなくなった。

現場の技術者は、「どう造るか」の粋を集めた(はずの)品質標準に絡め取られて、フットワークが上がらない。武器として与えられた、新しい組込みツールは、「何を表現するか」より、「どう下手を書かせないか」(バグを仕込まない)に重きを置いているように見える。製品を通して、ユーザーに何かを語りかける仕事は、技術部から宣伝部に、とっくに移ってしまった。

ユーザーの側も、かつては性能のトップエンドまで手を伸ばすことができたのに、今や、その操作の半分くらいは、プロセッサの順番待ちの列に並ぶ、API なんかと同じ扱いだ。想定外の入力は無視、またはカバー(適当に丸める)。最新技術は、ユーザーに何をしてもらうかより、何をさせないかに使われている。だから、手触りが何だか釈然としないのだが、別にそれでもいいらしい。自分が良いと感じるかより、みんながいいと言ってくれるかの方が大事なのだ。


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