バイクの本 〜 The Moto Guzzi Story
2012-03-25


禺画像]

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先週、Ducati を取り上げたので、せっかくなのでMoto Guzzi の歴史も(Ducati と対比しつつ)おさらいをしておこう。

Moto Guzzi は、わかりにくい。
歴史が長いこともあるが、Ducati のように、イメージを一枚岩では捉え難い。常に、何枚かのレイヤが重なったり、入り組んだりしている。だがよく見ると、それが実に巧妙だったり絶妙だったりで、単純に行かないところが、またイタリア的だ。

動き出したのは、1920年(大正9年)頃。
立ち上げ当時のマンデロ(工場がある地名)。まだスカスカ。
禺画像] (左側の三角の敷地が、Guzzi の工場)

1920年代の初頭に、バイクを設計開発して量産するというのが、どんな世界だったか。多分、現代の我々には、正確には理解できない。
T型フォードで「量産技術」が初めにお目見えしたのが、1910年代半ばだ。まだ、決まった方式はなかったろうし、お手本もなかった。
カンバン方式を妄信し、組み込みコードと品質管理基準に追われる、今のいたいけな技術者には、想像もつかない世界だったろう。

当時の工場の風景
(MOTO GUZZI DA CORSA 1 [ISBN 88-7911-134-5] より)
禺画像] (天井に回転軸を多数配置し、そこからベルトで動力を取り出す仕組み。電線でエネルギーを伝えるやり方も、手元で回ってくれる小型のモーターも、まだ無かった由。)

量産技術だけではなくて、内燃機関や、バイクそのものが、まだ「初物」だった時代。イチから全て、自分で考えて試して、立ち上げねばならない。

そこへ来てだ。
レースもやる。

当時の「レース」が何だったのか、これも正確には想像し難い。実験か、開発か、宣伝か、自慢か。多分、メーカーやライダーによって、様々だったのだろうけど。

しかしGuzzi の場合、まさに「走る実験室」としても使っていたように見える。量産プロダクトとは全く関係のないものが、しばしば走っているのだ。
「レースは走る実験室」とは、いつぞやの日本メーカーの物言いだが。あの頃も今も、レースから量産車に有益なフィードバックがあったようには見えない。「レースは走る広告塔」が実情だったろう。

Guzzi は違った。

加給器付き並列四気筒、1930年(昭和5年)。
禺画像]
エンジン単体の開発だけでも、シリンダーの数や配列から始まって(Vツインとかパラ4とか)、カムの配置や駆動方法(DOHCとかベベルとか)、加給などの周辺技術まで、内燃機関の基幹技術の向上に、地道に、自力で取り組んでいる。
実際には、これにフレームや足回りなど、バイクの総体としての研究開発が加わる。その「コツコツさ加減」は、エンジニアの果敢さ、真面目さを伝えている。相当な仕事量だったろうと思う。

量産と、レース。
この両方を平行して運営するのは、町工場レベルの組織では不可能だ。二次大戦前の時代に、これを可能にしていたのは、資力のある家系(パローディ家)が事業のバックボーンを担い、長期に渡って支援するという、当時のビジネスモデルが機能していたためかもしれない。
四輪まで展開していたビアンキほど手広くはないにせよ、当時のGuzzi は、今、想像するほど小規模な組織ではなかったろうと思う。

もうひとつ。
レースを宣伝として活用するのが当たり前の今の感覚からすると、レースと市販車を完全に分離していたのは不思議(異様?)にも見える。
でも、実はこれも意外と良かったかもしれないと思っている。
実験車を作るときに、量産を全く考えないでいい。実験に徹しちゃっていいのだ。
「あれは実験です」と、しれっと済ませられる。
これは、技術屋にとって、ありがたいことではなかったか?。

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