2012-05-05
脳溢血を体験した脳科学者が、その体験から脳の機能を解説する
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脳科学者が脳内出血を起こし、脳の一部を破壊された結果、意識や認知にどういった変化が起きたのか、内側から実地に経験した様子をルポする、という実に珍しい体験談だ。
内容は、大きく二つに分かれる。
まずは、何が起きたのか(起きたと感じられたのか)の「説明」である。脳出血が起こった当初から、手術や治療を経て回復を見るまで、10年余りを要しているが、その間の出来事を、時系列につづっている。
著者の場合、言語を司る部位が破壊されて、言葉を発すること、他人の言葉を認知することが困難になる。物事を、論理や経験で認識することが難しくなり、刺激をありのままに感じ取るだけになる。その感覚が、どのようにもたらされ、実際にどんな境地だったのかを説明している。その記憶の詳細さは驚くばかりで、脳溢血でブッ倒れた人間が、そうも冷静に物事を記憶しているものか?とも思われるが、著者の場合、幸いに記憶を司る部位は破壊されなかった、ということのようだ。
後半は、起こったことの「解釈」である。著者は脳科学者なので、その科学的な知識に従って、構造的な説明が行われている。根拠として使われているのは、いわゆる右脳・左脳理論や、ニューロンなどの脳生物学的な知見で、左脳は理論、右脳は感覚、私(著者)は脳出血で左脳の一部が破壊されたので、論理が苦手になり、感覚が強くなった、それはある意味幸せなことで・・・といった具合だ。
著者は、右脳的な感覚が人に幸せをもたらすものとして賞賛する一方、左脳的な感覚は前面に立つと人を不幸にするものとして、右脳の下位に置いて道具として使う方向で釣り合いを取るべき、としている。右脳マインドは、瞑想や悟り、神との一体感など、宗教的な感覚とも通じる、生き物としてごく自然、かつ基本的なものという説明だ。
感覚と論理、許容と確定、覚醒と限定、赦しと懲罰、ポジとネガ・・・挙げ始めると切りがないが、そんな対置を、全て右左脳理論で説明するのは無理があると、個人的には思う。(少々、古臭いとも感じる。刊行は2009年だが。)それに大体、著者の変化が、生き残った右脳の機能が前面に出たためなのか、著者がもともとそういう人だっただけなのかすら、厳密(科学的、物理的)にはわからない。感覚的な妥当性も、論理的な帰結も、ものごとの核心(クオリティ)を把握するには不十分、ということなのだろう。何か見落としているような気がするのは、きっとそのためだ。
しかし、著者の解釈には一定の説得力がある。それは、ともすると、理論や経験、文化などの「決められた枠組み」に捉えられすぎて、便利な反面、窮屈に暮らしている現代人への批判とも取れる。
例えば、酒である。私は、あれを「ブレーキを壊す薬」だと思っているが、多少のリスクや、予想される報い(二日酔いやγGTPの反逆など)を省みず、あれを嗜好する人が多く、さらに、いつも「つい行き過ぎ」がちだ、という事実は、我々が求めているのが、論理による的確さや確実さなどではなく、単なる「開放」だからだろう、と思う。
普段、我々は判断をする際に、いちいちブレーキをかけている。一般的なもの、妥当なもの、危なくない物・・・そういう、ふるいや型を当てはめていて、本当に素敵なもの、欲しいものを諦めてたり、意識の外に追いやったりしている。矛盾や、せめぎ合いが、常にあるものなのだ。他方、どこか、それをわずらわしいとも感じていて、意識・無意識に、解放されたいと願っている。
私はバイクに乗るのだが、いつも、そういう感情を背中に感じて乗っている。コイツは、開放をもたらす道具なのだ。しかもブレーキが付いている。この矛盾。最高である(笑)。扱うには、頭より体が覚える必要があるが、私は幸運にも、まだ若い頃に、それにある程度なじむ機会に恵まれた。多少こじつけくさいが、そういった、体が根本的に馴染むものへの賛辞は、私は何となく納得できた。
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