バイクの上半分 13
2013-10-20


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人間の行動を司る脳の制御をレベルづけすると、次の3つになると。
 ・意識 
 ・潜在意識  ※
 ・反射

(※ 「無意識」だと、心理学の亡霊のようなので。この表記にしておく。)

言語やスポーツなんかの、後天的な行動プログラムは、潜在意識レベル。
まばたきなんかの、先天的プログラムは、反射レベル。

上位のレベルほど、複雑な処理が可能だが、スピードは遅く、動作情報のスループットが限られる。(意識が集中できるのは、基本、一度に一つだけ、という 先週の話 。)
下位のレベルは、単純な動きしかできないが、スピードは素早く、帯域が広い。(いくつもの動作を、同時・並行して可能。)

優先度としては、下位の方が高いようだ。

下位の方は、動物が普通に遺伝レベルに持っている、本能などと同じような仕組みで、脳の比較的古い部分(脳幹など)が担っている。

上位に行くほど、人間にしかない能力になって行くが、脳の部位としても、人間にしかない新しい脳(大脳皮質とか)が担う傾向にある。(だから、人間以外の動物は、言葉やスポーツなどを、人間ほどは上手にできない。)

とはいえ、必ずしも、担当がハッキリと脳の部位別に分かれるわけではないし、物理的な脳の働きに絡めると話がややこしくなるしで、ここではシンプルに、意識と潜在意識に分ける程度が(少し不正確ではあるが)わかりやすかろう、と著者は言っている。

ただ、巷に良くある分け方だし、誤ったイメージも多いので、引きずられないよう、注意喚起もしている。

ありがちな例が、「氷山の例え」だ。意識できるのは水の上に出ている1割程度で、その下には、巨大な潜在意識があるんですよ、というアレだ。これは、誤ったイメージだと。
まず、意識と潜在意識が、一つの大きな固まりというのが間違っている。本物の(潜在)意識は、一体でも固まりでもなく、常に、動的に変化している。(時につれ、変わり続けている。)
また、意識と潜在意識の境界は、水面のように、はっきりとはしていない。明確に分けられないどころか、分布を持って広がっているし、お互いを激しく行き来する、流動性を保っている。

たまに、「意識は、潜在意識の『部分』に過ぎない。潜在意識こそが、本当の人格だ」のようにも言われるのだが、潜在意識は、そこまでちゃんとはしていない、とも。

そういった、意識と潜在意識のイメージと言うのは、人間は、意外と正しく感じているらしい。その証拠に、言葉では、そのあたりを素直に表す表現が多いと。例えば、怒りは「湧き上がる」し、感情には「とらわれる」、ムードには「流される」。それぞれ、自己由来ではない何かが、内から外から、影響しているように感じている様が現れている。

余談だが、イタリア語で「好き」と言う時の主語は、その好きな人やモノである。直訳すると、「このモノが私に好ましい」という言い方をする。自分から意図して好きになったわけではなくて、このモノが私の好みに入ったんだ、というニュアンスらしい。まあ、言われてみれば、その通りなのだが。
また、スペイン語で「忘れた」と言うのも、主語はモノである。「このモノが、私の意識から出て行った。」 日本語の「私は忘れました」をママ直訳してしまうと、「私は意図してそれを忘れるようにしました(わざと忘れた)」という意味になり、よろしくないそうだ。
日本語は、ここまで正確ではない。これらラテン語起源の言語の方が、帰結の表現は意外と(?)正確なのだ。

話を戻して。
「意識以外の何かが、私を動かしている」と、実は皆、正直に感じているのだとしても、その境目を使いこなすのは難しい。


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