読書ログ ローマ人の物語 (14) キリストの勝利
2016-04-17




高校生の頃だったと思う。
何かの自由課題で、「聖書」をあてがわれた事があった。

当然、熱心な教徒のように熟読したわけではなく、要所要所を飛ばし読みで、やり過ごしたのだが。頭が悪い私は、もう、旧約聖書の一番最初で引っかかってしまったのを憶えている。

「初めに言葉ありき。」


何が言いたい?

これは多分、理屈を通すための一文だったのだろう。つまり、世界の始まりを言葉が表しているのだから、世界の始まりの前に言葉がないとおかしい。そういう、「つじつま合わせ」のために入れた文なのかな?と。(または、宗教的にもっと深い意味とか、突拍子もない誤訳、なんてのもありうるが。今は突っ込まない。)

話が一旦それるのだが。
昔々のプログラムの言語、Fortranなんかの時代だが、変数の定義を一番最初にしておかないといけないものだった。(プログラムが走ってから、変数を格納するメモリ領域を仕切り直すのが難しかったので、必要量を初めに確保しておく必要があった。)

この旧約聖書の冒頭の一文でケつまづいた若かりし頃の私は、最初の変数の定義で悩んでしまったようなものだったのだ。

というのは、「プログラムの冒頭で全ての変数を定義する」ためには、プログラム全体を通して必要とされる変数を、前もって把握していないといけない。つまり、「何を書くのかはもう決まっていて、それへの対処を冒頭で行う」と、そういう構造になっている。

そして、旧約聖書が、それと同じ構造を持つということは、それが、実際にあった、または、あったと思われる事象を、時系列に、ありのままに記述したもの、というその体裁とは実体が異なっていて、何らかの意図を伝えるために、内容があらかじめ決められた物語である、ということを端的に示している。

神の仕業ではない。
人の仕事なのだ。

冒頭の一文から、私は、そんな臭いを感じたようだ。
そして同時に、憂鬱になった。

物語というのは、つまり、体よくまとまったウソのことだ。なのに、それを「信じている」と公言してはばからない人々が世界中にあふれていて、お前も信じろと盛んに薦める、のみならず、信じないのは悪いことだ、とも言っている。

当時の日本は、今よりも西洋コンプレックスが普遍的に強かったし、こういう不条理に不満を感じつつも、あからさまには反論しない雰囲気圧力が強かった。むしろ、この課題自体、「反論ではなく理解をしろ」と言いたげなニュアンスが、初めからあった。

でも、新約聖書を含めて、一見して矛盾した、筋の通らない物語が延々と続くそれを、ただひたすら「正しいもの」として読み込み、そこから、キリスト、つまり神の何たるかをすくい取ろうとする行為を、私は、理解できなかった。

(聖書のそういう読み方は、比較的近年のもので、時代によっては異端扱いだったと知るのは、もう少し後のことになるのだが。)

「聖書はキリストの愛に溢れている」
マジかょ・・・ ← 高校生の私

宗教というのは、単なる信心、どんな教義を信じるか、という話ではない。
ものの感じ方、対処の仕方、倫理や正義の規範、価値観、暮らし方の作法、そんなものまで含めた、「思想」と「文化」の間くらいの大きさの、考え方の体系のことだ。

だから、教義(聖典)の表面だけを眺めていても、分かることはわずかだ。その証拠に、同じ聖典から派生した宗派同士なのに、血を流して争うこともよくあるようだ。

私も、大人になってから、実際にイタリアに行ってバチカンを見たり、本場(?)イタリアのキリスト教徒の情報にも接するようになるのだが、どうも、キリスト教の真髄というのは、聖書に書いてあることではなさそうだ、とは察しがついたし、世界中を見回すと、一口にキリスト教といっても様々だから、一筋縄では行かない。


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