読書ログ 科学者は戦争で何をしたか
2016-10-08




図書館で、題名借りした。
読んでみると、2008年にノーベル賞を受賞された学者さん(理論物理学)が書かれた本だった。

つい最近、今年のノーベル賞の発表があったばかりなので、妙にタイムリーな選択だったのだが。意図したわけではなかった。

本の内容だが、まず、科学を人殺しに使う戦争と、それを起こす体制について、著者が抱き続けている危惧を、その経緯も含めて追い、続いて、昨年の安保法制(本書の刊行はその最中の2015年8月)や、先の福島の震災などについて触れている。

まず明確にしておきたいのは、この本は、
「技術者」、つまり、
 特定の目的のための機能を具現化すべく、図面や生産装置に向かう人々
ではなく、
「科学者」、つまり、
 物理(モノのコトワリ)を明らかにすべく、数式や実験装置に向かう人々
を書いた本だ。

この二つは、「科学技術」などとよく言われるように、一緒くたにされがちな傾向がある。実際は、全く別のもの、上流・下流とか、前後ではなく、どちらかと言うと、オモテ・ウラに近い関係にある、しかし、別のものであるので。ちゃんと分けて捉えるようにしたいと思う。

科学者は普通、「知りたい」という個人的な興味でもって、研究に当たる。彼らのうちの、有能で幸運な幾人かが、何かしら、新しいコトワリを見つけることになるのだが、それは、彼の手を離れて、勝手に、あらゆる姿を取りながら、散って行く。そうして、それを見出した者たちの思惑とは関係なく、知らない所で、妙なあだ花を、咲かせることがままあるのだ。

モノのコトワリには、色がない。
だから、それを使う者の色を、そのまま帯びる。

使う側の人間には、いい者もいれば、悪い者もいる。
善意の人が、いい人とは限らない。
面倒で、ややこしい。

例としては、著者も真っ先に挙げている原子力が、やはり一番わかりやすかろうと思う。
爆弾にもなりうるが、発電にも使える。
だが、安全で有用なはずの後者でも、炉がカチ割れてしまえば、大して変わらない。
それを作った人間の「想定」は違ったかも知れないが、そんなことは関係ない。結果は同じだ。

だから、それらのコトワリが、正しくヒトの役に立つよう、人々は、いや、その産みの親でもある科学者は特に、声を上げ続けなければいけない。それは、科学の世紀に生きている、人類全ての責務であり、運命である。

著者は、そういい続けてきたし、再度言うために、本書を書いた。
それはきっと、尊いことなのだろう。

しかし私は、どうも納得できなかった。

私は技術者だ(った)から、モノのコトワリを具現化するための「カラクリ」を作り続けてきた。

カラクリとは、作り手の意図や欲求とは無関係に、仕様通りの動作を繰り返すファンクションだ。だから、私の仕事は、私の意図や欲求とは全く無関係にあったし、それを当然と思ってきた。
本質的に、自分の意図や欲求が、技術に反映することを期待しないのだ。
(技術者が、自分の好きなものを作っていれば済んだ時代は、とっくの昔に終わっている。)

だから私は、筆者のように、自分の「こんなつもりじゃなかった」を声に出すことに、さしたる意味を見出さない。

筆者も自分で言っているのだが、人間は、科学の拡散を制限する術を持たない。筆者は、それを当の科学者が持っていないからこそ声をあげるべきと主張するが、それを持たないのは、科学者以外の人間も同じこと。筆者が批判の的にしている安部首相にしても、同じなのだ。


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